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聖ラーマクリシュナが骨折した理由は?


​それはホーリー・マザーがバールベラ(木曜日の午後)に出発したのが原因だった!

 1885年12月23日付け「コタムリト」にバールベラの出発(木曜日の午後の出発)を校長(マヘンドラ・グプタ)に注意しているが、過去、聖ラーマクリシュナはバールベラが原因で骨折をしたことがある。

 

先ずは1885年12月23日(水)「コタムリト」の記述を見てみよう。

 

 聖ラーマクリシュナ「そうだ、明日はまた木曜日でバールベラ、縁起が悪いじゃないか。お前、三時前に来られないかい?」

 校長「はい、そういたします」

(訳註)木曜日の午後のことを〝バールベラ〟と言うが、ベンガル地方では木曜日の午後にどこかに出発するのは縁起が悪いとされているので、タクールはここに三時前に着くように午前中の出発を促したのである。

 

次に1884年3月9日(日)「コタムリト」の記述を見てみよう。

 聖ラーマクリシュナは、腕に副木を当てて包帯をしておられる。鉄柵のところで転んだとき、腕を骨折なさったのだ。そのときは霊的恍惚状態で歩いていらっしゃったのである。腕は絶えずお痛みになるらしい。

 

 ホーリー・マザーの伝記には、タクールは腕を骨折した理由は、ホーリー・マザーがジャイランバティをバールベラ(木曜日の午後)に出発したことであると記載されている。

 

以下、ホーリー・マザーの伝記よりその部分の記述を見てみよう。

「ホーリー・マザーの生涯(日本ヴェーダーンタ協会刊)p59」を元に加筆

 

(ここからの数行は、 聖ラーマクリシュナとホーリー・マザーがその当時置かれていた状況の記述である)

 軽率な行為が元でカーリー寺院での職を失い、境内に入ることすら禁じられたフリダイに代わり、甥のラームラルが後任のカーリー女神の神官となるのですが、彼も又増上慢になり、深い霊的ムードのためしばしば意識を失ってしまう聖ラーマクリシュナをなおざりにしてしまい、師の食事は皿の上で乾き切ってしまって、誰も師のお世話する者はいなくなった。師は急きょ故郷に戻っていたホーリー・マザーにドッキネーショルに戻るよう手紙を書いた。そして1882年1月にホーリー・マザーはドッキネーショルに戻ってこられた。

 

 そして1年半ほど師のお世話をされたホーリー・マザーは1883年6月、ジャイラムバティに7度目の帰郷をされました。

(ここまでがその当時の状況説明で、この後、問題のバールベラでの出発の記述となる)

 その7、8ヶ月後、彼女はドッキネーショルに戻ってきました。ドッキネーショルに着いてナハバトに荷を置いた彼女はシュリー・ラーマクリシュナの部屋に向かいました。そこで目にしたのは、左腕に副木を当てて包帯をしておられる師の姿でした。師は少し前にサマーディの状態にあった際に転倒され、左腕を骨折されたのでした。シュリー・ラーマクリシュナはホーリー・マザーに「あなたが故郷を発ったのは、いつなのか?」と尋ねられました。ホーリー・マザーがそれに答え、それがバールベラ、つまり木曜日の午後の出立であり、ベンガル暦に従えば不吉な時刻の出立であったとわかると伝統に則った挨拶をしておっしゃった。「それが、私が腕を折った理由だよ。すぐ故郷に帰って吉兆の時刻に出直しておいで」サーラダー・デーヴィーは即座にその場で出発する用意ができていましたが、夫の申し出に応じて一晩過ごしました。翌日、彼女はジャイラムバティに発ち、数日後にドッキネーショルに戻って来ました。

ホーリー・マザーの出立の日はいつだったのか?

 

 もしタクールの骨折がホーリー・マザーのバールベラ(木曜日の午後)の出立の日と同じ日だと仮定すると、ホーリー・マザーの出立日を推察することが出来る。

 コタムリトでタクールの腕の骨折のことが記載されるのは1884年3月9日(日)の記述である。

 それ以前の1884年3月2日(日)のコタムリトの記述には、タクールの骨折のことはまったく書かれていない。となるとタクールの骨折は3月2日(日)から3月9日(日)の間と推測される。この期間に該当する木曜日は3月6日(木)だけなので、従ってホーリー・マザーがバールベラの出立をしたのは1884年3月6日(木)であると推察される。

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