ラーマクリシュナのことば
スワミ・アベーダーナンダ
山尾三省訳
第 4 章
「 自我主義(アハンカーラ)としてのマーヤー 」
〈 自我主義(アハンカーラ)の悪罪 〉
(99)
太陽はすべての世界に熱と光を与える。しかし、雲が光をさえぎれば、そうすることは出来ない。そのように、自我主義(アハンカーラ)がハートを覆えば、神はその上に輝くことは出来ない。
(100)
自我主義(アハンカーラ)は、神を我々の目から隠す雲のようなものだ。グル(師)の慈悲により、もしそれがなくなれば、神はすべての栄光の内に知覚されるだろう。たとえば、お前は絵の中でラーマを見る。神なる彼は、ラクシュマナ(シヴァ)のほんの二、三歩先を歩いている。けれども、マーヤーなるシーターが二人の間に入ってくると、ラクシュマナはラーマの御姿を見ることが出来なくなるのだよ。
(101)
質問「師よ、なぜ私たちはこのように縛られているのでしょう? なぜ神を見ないのでしょうか?」
答え「人のエゴ自体がマーヤーなのだ。それが光を閉め出す幕なのだ。本当に “私” の死と共に、すべての困難は終わるのだよ。主の慈悲によって人が、“行為するものは自分ではないという知識” をひとたび持てば、その人は確かにジーヴァン・ムクタ、この人生から自由なものとなってすべての恐れを超えるのだ。」
(102)
私がこの布を目の前に広げれば、お前はそれだけで、私を見ることができない。けれども私は、前と同じようにお前の目の前にいる。そのように神は、何よりもお前のすぐそばにいるのに、自我主義(アハンカーラ)の幕のお陰で見ることができないのだ。
(103)
自我の思いがある限り、自身の知識(ジュナーナ)も、解放(ムクティ)もあり得ない。そして、誕生と死の繰り返しの終わりもない。
(104)
米、豆類、じゃがいも、その他の穀物を、土製の壺の水の中に入れれば、それが火で熱せられるまでは手で触ることが出来る。同じことがジーヴァ(個我)について当てはまる。この肉体は土製の壺である。富と学問、カーストや血統、力や地位などは米、豆類、じゃがいもに例えられる。自己中心主義(アハンカーラ)は熱である。ジーヴァはこの自己中心主義(アハンカーラ)によって、熱く尊大に煮られる。
(105)
雨水は高い所に留まることはない。最も低いところへ流れ下る。そのように、神の恵みは最も低いハートの内に注ぎ込み、空しい驕(おご)り高ぶる者のハートからは流れ去ってしまう。
(106)
自己中心主義(アハンカーラ)は、人にとって大変に危険なものだ。それが根絶されない限り、人が救われることはない。自己中心(アハンカーラ)のせいでやってくる仔牛たちの困りようをごらん。仔牛というものは生まれるとすぐに「ハム、ハイ(おれは、おれは)」と叫ぶのだよ。その自己中心(アハンカーラ)のおかげで仔牛が大きくなると、もし牡牛(おうし)なら鋤(すき)につながれるか、重い荷を積んだ荷馬車につながれ、もし牝牛(めうし)なら、つながれっ放しでいつか殺されて食べられてしまう。そんな風に罰せられても、動物というものは自己中心癖(アハンカーラ)がなくならない。何故かというと、その皮で作られた太鼓は、同じ「ハム、ハム(私、私)」という音を出すからだ。動物は、その内臓から弦(つる)にする糸がすき出されるまでは、謙遜さを知ることがない。何故かと言うと、動物の腸が弦(つる)になった時にはじめて、「ツーハイ、ツーハイ(あなた、あなた)」と歌い出すからだ。「私」は去り、「あなた」に席をゆずらねばならぬ。そしてこのことは、人が精神的に目覚めさせられぬ限りは行われることではない。
(107)
自由は、お前の内の “私”(=自己中心主義:アハンカーラ)が消え去り、お前自身が神性に没入した時にやって来るだろう。
(108)
人は、いつになれば救いに達するのか? ただ彼の自己中心主義(アハンカーラ)がなくなった時にのみ、達するのだ。
(109)
質問「いつ私は、自由になれるのでしょうか?」
答え「その “私” が、お前からなくなった時にだ。“私”、“私のもの” ――これこそが無知というものだ。“あなた”、“あなたのもの” ――それが真実の知識だ。本当の信仰者はいつでも言う。『おお主よ、あなたが行為者(カルタ)です。あなたがすべてのことをなさいます。私はあなたの御手の内にある道具にすぎません。私はあなたがさせることなら何でもいたします。これらすべてはあなたの栄光です。この家、この家族はあなたのもの。私のものではありません。私にはただ、あなたが命ぜられるとおりに仕える権利があるだけです。』」
〈 自己中心主義(アハンカーラ)を制御する難しさ 〉
(110)
他のすべてのことの虚しさは次第に消え去ってゆくが、聖者が自分の聖性を尊重することの虚しさをぬぐい去ることは、実に難しいことだ。
(111)
ニンニクの汁が入れてあったコップは、何回洗ってもまだ匂いが残っているものだ。自己中心主義(アハンカーラ)は、お前が逃れようとしてどんなに努力しても、完全に消えてしまうことのない頑固な無知の姿だ。
(112)
胃の弱い人は、酸っぱいものが自分にとって有害だということをとてもよく知っているだけだ。けれども連想作用の力で、酸っぱいものを見るだけで、もう口の中につばきが出てくる。そのように、人がどんなに一生懸命 “私”、“私のもの” という考えを押さえつけようとしても、ひとたび行動にうつると、“熟していない” エゴはその存在を主張し始めるものだ。
(113)
内なる “私(アーハン)” を脱してサマーディ(三昧)に至るものは、大変少ない。普通は、それはなくなることがない。お前が限りなく推論し識別しても、この “私” は限りなくくりかえし舞い戻ってくる。今日、プペルの木を切り倒したと思っても、明日になればまた枝を広げているのが見られるようなものだよ。
(114)
自分の名と名声を求める者は、皆、惑わしの内にある。彼らは、すべてのことは万物の偉大なる分配者によって定められており、すべてのことは主に、ただ主にのみ帰せられるのだ、ということを忘れている。賢い人はいつでも言う。「それはあなたです。おお主よ、それはあなたです」けれども無知な者、惑わされている者は言う。「それは私だ。それは私だ」と。
〈 “熟した” エゴ と “熟してない” エゴ 〉
(115)
エゴには二つの形がある。一つは “熟した” エゴであり、一つは “熟してない” エゴである。「私のものと呼べる何ものもない。私が見るもの、感じるもの、聞くもの、いや、この体そのものでさえ私のものではない。私は常に永遠であり、自由であり、全知である」――このような考えは “熟した” エゴから起こってくる。「これは私の家だ。これは私の子供だ。これは私の妻だ。これは私の身体だ」――こういう種類の考えは “熟してない” エゴの現れなのだ。
(116)
「私は神の召使いだ」と主張するエゴは、本当の信仰者の特徴だ。それはヴィディヤ(知識)のエゴであり、“熟した” エゴと呼ばれる。
(117)
有害な “私” とは何か?「何だって! 彼らは私を知らないというのか? 私はこんなに金を持っているのに! 誰が私ほどの富を持っているというのか? 誰が私より優れていると言うのだ?」そんなふうに言う “私” である。
(118)
人を世俗の者とし、肉欲と富に執着させる “私” こそは有毒なものだ。一人一人の魂と、宇宙存在とは、この “私” が間に出てくるために分けられてしまうのだ。杖が水の表面に置かれると、水は二つの部分に分けられたように見える。杖がアーハン(私)なのだ。それを取り去ってごらん、水はまたもとの水に帰るのだ。
〈 どのようにしてエゴを制御するか 〉
(119)
この “私” という言葉を求めつづけてよく考えてみると、それはただ、自己中心主義(アハンカーラ)を示す言葉にすぎないことが判る。けれども、それを振り払うことは非常に難しい。そこで人は言わねばならない。「お前、邪悪な “私” よ! お前がどうしても去らないというのなら、ただ神の召使いとしてとどまれ!」と。自身を神の召使いと感じるようなエゴは、“熟した私” と呼ばれるものだ。
(120)
シャンカラチャーリャは、長い間彼に仕えてきた一人の弟子を持っていたが、彼は師から何の教えも受けることがなかった。ある時、シャンカラは一人で坐っていて、後ろから誰か近づいてくる足音を聞いた。そこで彼は尋ねた。「そこに居るのは誰か?」弟子は答えた。「私です。」シャンカラは言った。「その “私” がお前にとってそんなに大切ならば、そいつを無限にまで広げなさい。さもなかったら、そんなものは一切棄ててしまえ!」
(121)
お前が、この “私” という感覚から逃れられないと判ったら、その時にはそれを、“召使いである私” として残しておくがよい。「私は神の召使いです」「私は彼の信仰者です」という思いに集中したエゴからは、恐ろしいことは多くは生まれてこない。甘いものは胃弱の原因になるが、砂糖菓子だけは例外なのだよ。召使いの “私”、信仰者の “私”、子どもの “私”、これらの “私” は、水の表面に杖で引かれた線のようなものだ。長くつづく心配はない。
(122)
砂糖菓子が他の甘いもののように健康に悪くないように、自分を神の召使い、又は崇拝者とみなす“熟した”エゴは、“熟さない”エゴの特徴である悪い結果をもたらすことはない。それどころか、“熟した”エゴは神へと人を導いてゆき、人がバクティ・ヨーガ、つまり信愛の道において進歩したことを示しているのだ。
(123)
“召使いである私” という態度を身につけた人の感情や心の動きは、どんな性質を持っているだろうか? 彼の確信が真実で誠実なものなら、彼の以前の感情や心の動きは、うわべの形が残っているだけだ。たとえ、“召使いであるエゴ”、また “信仰者であるエゴ” が残っているとしても、神を実現した人は、何ものを傷付けることもない。個人の持つすべてのとげは、彼の内から消え去っている。賢者の石に触れることによって、剣は黄金に変わると云われている。それは以前の鋭さを保ってはいるが、もはや誰をも傷付けることがない。
(124)
お前が自尊心を感じた時には、心の内に、お前は神の召使いであると、神の息子であると思いなさい。偉大な人は、子供の性質をもっているものだ。彼らは、主なる “彼” の前で、いつも子供なのだ。だから、プライドから自由でいられるのだ。彼らのすべての力は神のものであり、彼らのものではない。それは、主なる “彼” に属し、“彼” からやってくるものなのだ。
(125)
「すべてのことは、神の意志によってなされるのだ」という確信を持っている人は、自分自身を神の手の内の、単なる道具に過ぎないと感じるのだ。その人は生きているままで、すべての束縛から自由になることが出来る。「あなたが、あなたの仕事をなさるのです。主よ!」おお、それなのに人は言う。「私が、それをするのだ!」
(126)
人が「私は知っている」とか「私は知らない」などと言っている間は、その人は自分自身を、単に人であるとみなしているのだ。聖なる母は言われる「お前の内なるそのアーハン(私)がすべて消え去った時のみ、サマーディの中で〈分かつことのない絶対〉が実現される」その時までは、“私” は母の内にあったり、母の前にあったりする。
(127)
自分のおそまつな性質との激しい闘い、自覚へ導く精神訓練の勤勉な実行過程の後で、人は初めてサマーディ(三昧)の状態に達する。その時、すべての付属物とともにエゴは消える。しかし、サマーディに達することは大変に難しい。エゴはとてもしつっこいものだから。これが、私たちがくりかえしこの世に生まれ変わってくる理由なのだ。
(128)
人が神聖なヴィジョンを見ることによって祝福されない限り、また、賢者の石のひと触れが人の心の内なる鉄を黄金に変えない限りは、惑わしの感覚が支配するだろう。「私が行為者である」と。そしてこの惑わしが止まらない内は、「私はこのような善いことをした」「私はこのような悪いことをした」という差別の相をもたらす思いがありつづけるだろう。マーヤーとは、この差別の思いを意味し、また世界がありつづけるのは、このマーヤーが原因なのだ。人が、正しい道に沿って行くヴィディヤ・マーヤー〔サットヴァ(純粋性)だけを持ちつづける神聖な力の相〕の内に避難所を求めるなら、その人は神に至るだろう。彼だけがマーヤーの大海を渡って神と向かい合い、神を実現するだろう。人は、神が本当の行為者であり、自分自身では何をすることもできない弱者なのだ、ということを知りさえすれば、この地上で肉体を持つ身でも、まちがいなく自由そのものなのだよ。
〈 自己を実現した人のエゴ 〉
(129)
“私” の感覚は、完全に死滅することはないのだろうか? ユリの花びらは、時が来て落ちる。けれども、花びらの痕跡はあとに残っている。そのように、人のエゴは、神を実現すれば全く消えてしまう。けれども、それが前にあった跡だけは残っている。残ってはいても、それは少しも悪い結果を産むことはない。
(130)
本当に賢い人とは、主を見た人のことだ。彼は子どものようになる。子どもはもちろん、自分自身の独立性、個性を持っている。けれども、その個性はただ見かけのものにすぎない。現実のものではない。子どもの自我は、成長した大人の自我のようなものではない。
(131)
サマーディの第七の段階、つまり最高の状態に達し、神意識の内に没入してしまっている偉大な魂は、人間の善のために、その精神の高みから降りてくることを喜ぶものだ。そういう人たちは、目覚めた知識のエゴを持っている。それは、より高い自我(神)と同じものである。このエゴは、ただ見かけだけのもので、水に引かれた線のようなものなのだよ。
(132)
縄の切れっぱしを燃やすと、その形だけが残る。だが、もう縛る役には立たない。至高の知識の火で焼かれたエゴも、同じようなものだ。
(133)
ある人が、誰かが彼を切りきざもうとしている夢を見たとしよう。驚いて叫び声をあげながら彼は目を覚ます。そして彼は、自分の部屋のドアは内側から鍵がかかり、部屋には誰もいないのを見るとしよう。それでも、彼の心臓はしばらくの間は、ドキドキ鳴りつづけている。そのように、私たちのアビマーナ( “私” の感覚)は、それが去ってしまった後でも、しばらくの間は残されているものだ。
(134)
サマーディに達した後でも、或る人々はエゴ(神の召使い、または崇拝者としての私)をとどめている。シャンカラチャーリャは他の人々を教え導くために、ヴィディヤ(知識)のエゴを持ちつづけていた。
(135)
ハヌマンは、形のある神(サカラ)と形のない神(ニーラカーラ)と、二つの神のヴィジョンによって祝福されていた。けれども彼は、神の召使いであるというエゴだけはとどめていた。ナーラダやサナカ、サナンダ、サナトクマーラのような聖者の場合も同じことが言える。
ある信者「ナーラダや他の聖者たちは、ただバクタ(信愛する人)だったのですか、それともジュナーニ(知識の人)でもあったのですか。」
師「ナーラダや他の聖者たちは、最高の知識(ブラフマジュナーナ)に達していた。けれどもあの人たちは、小川の水のせせらぎのように神の讃美を語り、また歌った。このことは、あの人たちもやはり、知識のエゴ、かすかな個性のあとを持ちつづけていたことを示している。それは、神性から彼ら自身を少しばかり分けておいて、宗教の真実に仕えるよう他の人々に教えるためだったのだよ。」
(136)
ある時、師は冗談に、弟子の一人に尋ねられた。
師「さて、お前は私の内に少しでもアビマーナ(私意識から生じる自尊心)を感じることがあるかね? 私はアビマーナを持っているかね?」
弟子「はい、師よ、少しばかり……。けれどもその少しは、次のような目的のために持たれているのです。
まず最初に、身体を維持するため。次に、神への愛を行うため。三番目に、信者の仲間と交わるため。四番目に、人々に教えを与えるためにです。
それと同時に、あなたは深い祈りのあとでだけ、それをとどめておられるのだと言わねばなりません。私が思うには、あなたの魂の自然な状態は、言葉のサマーディによってのみ言い表すことができます。ですから私は、あなたが持っていらっしゃるアビマーナは、ただ礼拝の結果なのだと言うのです。」
師「そのとおりだよ。けれどもそのアビマーナは、私によってとどめられているわけではない。聖なる母によってとどめられているのだ。それは、聖なる母の内に祈ることを許されるためにあるのだよ。」